は母のお墓にしてるんです。さすがに拝んだりはしてませんがね。
ちゃんと本物に手を合わせてきましたよ
でも将来的には有りかなと思うんですよ
靖国問題も難しいけどネット参拝なんちゅうのもええかもね
ところで私自身は戦争を知らないけどわたしの父は硫黄島の生き残り兵なん
です。「よく帰ってこれましたねえ」と人が父に言ったのに対して「でもけ
っこう帰りましたよ」って答えているのを聞いた記憶があります。たしかに
捕虜になって生き残った日本兵は1033人と書いてあるからまわりに千人
いればたくさんに見えたかもしれません。昭和20年2月19日アメリカ軍
が上陸してからすごい激戦 で日米あわせて約3万人があんな小さな島で亡く
なってるんやね。戦争の話はほとんどせず過ごしてきたけど最近になって実
家にあった硫黄島の戦記を電車で読んでみたのよ。サイパンからB29が東
京へ向かうとき途中で離着陸できる滑走路を作れるのは硫黄島以外になかっ
たから重要な拠点だったんやね。今でもそのままになっている遺骨が多数ら
しい。恍惚になりゆく父に聞くのは気が引けるけど聞くなら今しかないと思
い聞いてみた。硫黄島の地図見せて「お父ちゃんはどの辺から上陸した?」
と。父は西海岸を指し「この辺じゃったと思う、ちっちゃい島なんだよ」と
言う。きのうのことは覚えてなくても昔のことは覚えているんやね。西海岸
は波は高いが遠浅になってる。アメリカは西海岸の波の荒さを嫌い東海岸を
選んだけど予想以上多くの犠牲を出したんやね。日本軍は水際では抵抗せず
上陸し終わって海や上空から掩護ができなくなってから反撃にでたんよね。
栗林兵団長は兵員と弾薬をぎりぎりまで節約してアメリカに最大限の損害を
強いる作戦を立てたんやね。それでも生きて帰れることなど考えてあの島へ
行った人はひとりもなく現に日本側2万の将兵のほとんどが戦死している。
捕虜になった日本兵はいったんグアム島へ送られ船で本土へ戻ってきたとい
う。グアムではひとりづつ番号がつけられ父は「たしか700番代じゃった
と思う」と言っている。何はともあれ父は生きて本土へ戻り母と結婚して私
は生まれたんです。そこで例によってグーグルマップのサテライトで見てみ
ると、なんとこんな小さな島でもちゃんと画像がありましたすごいね。

硫黄島は南西諸島の南端にあり火山列島の一つで島には二つの火山がある。
南北に8キロ幅は中心部で4キロ、南端にすり鉢山、中心やや北に元山があ
る。今でも地表から硫黄ガスが出ているのが見えるね。今は飛行場の数も形
も変わってる。戦後23年目に返還されて今は自衛隊が管理しているらし
い。もっと近づいて見ると建物や駐車場やタンクなどが見える。島には一本
の川も流れていない。当時は5つの井戸や数百の貯水槽があるものの2万人
分の水はとても足りなくて想像を絶する水の苦労があったに違いない。
日本軍が最後追い詰められた最後の拠点でもっとも難攻不落だった北の岬に
近づいてみるとなるほど砕かれた溶岩で無数の溝で刻まれてる。この間に機
関銃、追撃砲、小銃陣地を築いてたんやね。アメリカはどこから弾が飛んで
くるのか識別不能で相当悩んだんやね。

父は島についたその日から穴掘りの毎日で決して明るいうちに外へは出して
もらえなかったと言っていた。父は中国から帰って2度目の召集で硫黄島へ
行ったけれど九州の故郷へ帰ると自分の遺骨が先に届いていたという。それ
を自分で役場へ返しに行ったと聞いてまだ小さかった私は「ええっ自分の骨
自分で返しに行ったん?」と言ったら母が「そんな器用な人間いてへんわ。
遺骨ってただの箱やで」と言ったのを覚えている。(愛国丸で戦死した母方の
叔父もやっぱり箱だけです)。当時は夫や息子を亡くした家ばかりだったので
生きて帰れても良かったと大喜びなどできず「死にぞこない」と陰口された
りもする風潮だったらしい。その後父は大阪へ来て母と知り合い結婚したの
です。
ネット上には4度も召集されて硫黄島から生還し手記を残してる人もいて読み
ふけてしまった。水際無抵抗作戦に反対しアメリカ軍が上陸する前に本土へ
転勤になった和智大佐が島に残して戦死した部下を悼んで戦後僧侶になって
硫黄島協会を作って遺骨収集したり40年後日米の生き残り兵の名誉の再会
に尽力した話やそのとき元アメリカ兵が連れてきた孫がその様子を見て感動
しレーガン大統領あてに出した「平和への手紙」がコンテストでグランプリ
を受賞した話など戦争にまつわる話はわらわら出てくる。でも戦争で死んで
いった人を思うとどんな美談も空しいだけよ時間は巻き戻せないんだからね
この時期、ブログでも戦争について書かれている人がたくさんいますね。
61年経っても語り継がれている戦争の悲惨さを思うと、心が痛みます。
今の日本の繁栄は戦死者の犠牲のうえに成り立っているのですよね。
昨日の高校野球を中断しての正午の黙祷、私もTVの前で一緒に黙祷しました。
私はけっこうそのあたりの日本の歴史について無知だったのですが、
最近ネットでいろいろ読んだりして勉強しています。
一番良くないのは「無関心」だということにやっと気づいたので。(^^;)
歳のせいかこのごろは作られた感動ドラマよりもドキュメンタリーの方がずっと心にせまってくるんですわ
そもそも行ったのが終戦に近かったそうで、まもなく攻撃を受け、銃弾を浴びながら命からがら川を泳いで逃げたとか・・・
その話を聞いた頃、私はまだ戦争に何も思いを持たなかったのでちゃんと聞いていませんでした(汗)もっときちんと聞いておきたかったと今になって思います。
その父親が亡くなってもう24年になりますが、最近政治家が「敵基地は先に攻撃してもかまわない」なんて言うのを聞いてゾーっとしました。これからも可能性がなくはないわけで・・・知らぬ間に・・なんてことのないようにと危惧しました!
忘れるほど平和なのはありがたいけど、悲惨な現実は忘れちゃいけませんね。
そうでしたか、お父様も大変な経験をされてるんですね。わたしも小さい頃に聞いたことはぼんやりとしか覚えてていないんですよ。最近になって戦記を読んだりネットで調べてみてはじめて細かい部分を知ったところなんです。